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  江戸の隠密 武蔵一族

 

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外国奉行 柴田剛中

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パリにて、撮影はナダール氏


使節団の主要メンバー。左から、松平康英(副使)、竹内保徳(正使)、京極高郎(目付)、柴田貞太郎(組頭)
Wikipedia 柴田剛中




Sadataro T Shibata (right)
右から柴田貞太郎、福澤諭吉、
太田源三郎福田作太郎
1862年 オランダ


 
柴田貞太郎剛中 プロイセンにて
 Shibata Sadataro Takenaka
 

 

 

 

 

 

 

 

幕末期には忍びたちが活躍しました。黒船の船中が探られ、外交交渉に関する情報の収集が行われました。尊王攘夷が吹き荒れるなか、際立った働きをしたのは柴田貞太郎剛中(しばたさだたろうたけなか)でしょう。

NHKの大河ドラマ、龍馬伝の中に、先達の柴田貞太郎(剛中)が出てきました。 第19回の「攘夷決行」の中で、外国奉行の柴田剛中(青山伊達美)が アメリカ公使ロバート・プリュイン(イアン・ムーア)と英語で話しているところです。

龍馬伝 第19話

江戸 アメリカ公使館で公使 ロバート・プリュインに「幕府は我々と戦争するつもりか?」と問われ、外国奉行の柴田剛中が、戦をする気はない旨を伝えるシーン


ペリーが来た直後は幕府の外国奉行は日本語・オランダ語・英語の順番でリレー通訳に頼っていましたが、柴田が役職についた時の文久時代には、英語で会話ができました。
万延元年(1860年)には中浜万次郎や西吉十郎らから英語を学んでいたものと思われます。

柴田は安政5年(1858年)8月に外国奉行支配組頭となり、神奈川開港問題の交渉にあたって、横浜開港を実現させました。一族の忍びたちを駆使した情報収集力がものを言ったといえます。その後も外国人殺傷問題や通貨問題などで外交団との交渉の窓口となりました。

文久遣欧使節団
剛中は幕府遣欧使節組頭としてヨーロッパに渡り、開港開市の延期交渉にあたります。使節団の目的は3つ。(1)開港・開市の延期を確約すること、(2)西洋事情を視察すること、(3)ロシアとの樺太境界を定めることでした。

幕府使節として、一行のまとめ役の柴田剛中(外国奉行支配組頭)とともに渡欧した顔ぶれは、 特命全権公使として、正使に竹内保徳(外国奉行兼勘定奉行)、副使に松平康直(神奈川奉行兼外国奉行)、京極高朗(目付)、そして通訳に福沢諭吉、福地源一郎など総勢35名の使節団でした。

福沢諭吉の「西洋事情」の記述によると、柴田は3人の家来(親戚)を連れていました。1人は国立国会図書館の中にも名前がでていますが、他の二人(中川忠道など)は隠密行動のため、名前は伏せられています。

文久元年12月22日(1862年1月21日)、英国海軍の蒸気フリゲート・オーディンで
品川港を出発し、香港、シンガポールを経てスエズに上陸、鉄道でエジプトに行き、船で地中海を渡りマルセイユに入りました(4月3日)。

パリに到着(4月7日)、フランス帝国と交渉、1862年4月30日、ロンドンに到着。兵庫、新潟、江戸、大坂の開港・開市を5年延期し、1868年1月1日とするロンドン覚書を調印。オランダ王国、プロイセン王国・ベルリンと他国とも同様の覚書を締結。
その後、ロシア帝国・サンクトペテルブルクに行き、樺太国境画定に関するロシア帝国との交渉行いましたが合意に至りませんでした。

ロンドンでは、万国博覧会を見学。柴田はヴィクトリア女王からは双眼鏡を頂いています。(欧州滞在中の一行の写真は、仏人ナダール氏が撮影。)

帰路、ポルトガル王国を訪れ、ジブラルタルを経由、1863年1月30日、約1年間の旅を終え一行は帰国。

文久3年11月から元治元年の5月、 箱館行御。外国奉行である剛中は箱館ロシア領事との交渉にあたりました。このときの海軍奉行は勝海舟です。

慶応元年(1865年)5月、幕府は、柴田剛中を大日本外国事務奉行兼理事官の肩書で、横浜から再びパリに第二回渡欧使節団を横浜から渡欧させました。水品楽太郎(外国奉行支配組頭)塩田三郎(フランス語通弁)ら9人を従えて渡欧。

柴田は、製鉄所建設及び軍制調査の正使としてフランス・イギリスに派遣され、皇帝ナポレオン3世と会見したほか、外務省や各国公使館の訪問、陸・海軍省との折衝、軍港、海軍工廠などを見学。 フランスとの製鉄所建設と軍事教練に必要な協定を締結することに成功。このとき欧州で収集された情報が幕府に書き送られています。

剛中一行の土産
懐中時計、宝石、外国の地図、旅行案内書のほか、1枚の肖像画がある。 描かれているのは、イタリア統一の英雄とされるガリバルディ。幕府高級官僚の剛中らは、欧州の都市をめぐるあいだ、欧州の奇跡としてガリバルディの話をきかされたのでしょう。

帰国後
1867年には大坂町奉行と兵庫奉行を兼務してもっぱら外国人居留地問題などの外交問題を担当しましたた。坂本竜馬が設立し海軍操練所に住まいを移し、神戸の居留地造成工事に着手。しかし、朝廷は、坂本龍馬の仲立ちで手を組んだ薩摩藩と長州藩に、慶喜を賊臣として征伐せよと倒幕の密勅をくだしました。

明治元年、1868年の鳥羽伏見の戦いでの幕府軍は敗北。徳川慶喜は江戸城明け渡し、大政を奉還しました。朝廷から、権力の委譲受け入れの宣言もないまま、外国に対する日本の主権者として柴田剛中が神戸開港の書類を交換しました。 1867年、12月7日、兵庫開港を、国を代表して剛中が締めくり、ほっとした翌8日、王政復古が宣言され、柴田剛中は江戸へ戻りました。

対外的な事後処理を終えた後、隠居願を提出、同年4月に認められて所領のある上総国山辺郡に退きました。その後、その見識と人物を評価されて
明治政府より出仕要請が出されましたが、これを辞退。「侍は二君にまみえず。」と幕臣身分のまま身を引くことを潔しとしたのだ。ただし、たびたび政府に請われて上京し、外交問題に関する諮問に誠実に応じたと言われています。

そして、明治時代、剛中の息子、専一が一族の頭、龍之丞となり。第一次世界大戦前に悔い改めてクリスチャンになるまでの時期は、忍びの仕事人の一族を率いる者として大いに恐れられたようです。          
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